世界一周ローカル旅

難民だった僕の友人の話

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まいど!横山笑来です。

 

 

はじめに。その友人を仮にМとします。僕は以前、オーストラリアへワーキングホリデーに行っていたことがあるのですが、その時にある農場で働いていた時のボスがМです。
そこは所謂アットホームなファームで、Мは仕事後よく僕をホームパーティに招待してくれました。Мの友人達と一緒に料理をつつき、ビールもたくさんご馳走になりました。おしゃべりが大好きで、少し寂しがり屋なМは、酔っ払うとたまに昔の話をしてくれました...。

 

 

 

 

М5歳当時】
1975
430日、Мの故郷サイゴンは、北ベトナムの攻撃によって陥落(かんらく)し、これによりベトナム南北戦争は終結します。
翌年には南北統一。
サイゴンは、ベトナム共産党の指導者ホーチミンになぞらえて、現在のホーチミンという名に変わりました。

 

国の名前は「ベトナム社会主義共和国」

 

 

М13歳当時】
戦争が終わったとは言え、社会主義体制となったベトナム国内(.南ベトナム)では、経済的に追い込まれたり、制度に馴染めなかったりといった理由で1975年〜80年代には難民が続出しました。
このインドシナ難民と言われる人々を、日本も一万人以上受け入れをしていますが、全体では144万人に達すると言われています。
中でも、小さな船で周辺の国々へ渡った難民のことを「ボートピープル」と言い当時は世界中から注目されました。

 

М13歳の時、家族と離れ離れになります。弟達はまだ幼かった為、両親は動けず、Мは単身マレーシアへ渡ります。小さなボートに、ぎゅうぎゅう詰めで。マレーシアに着くと、そこには数千人の人々が難民キャンプで暮らしていたそうです。

 

 

М16歳当時】
マレーシアでの難民キャンプ生活中にも、多くの国々で難民の受け入れが進んでいたそうです。各国、一人づつ個人情報を調べ上げた上で、受け入れをしていきます。アメリカ、カナダ、オーストラリア、日本、、、Мはたまたまオーストラリアに選ばれただけでした。難民は行きたい国を選ぶ事は出来ません。オーストラリアに来たМはそこで農業を学びます。

 

 

М34歳当時】
そしてついに、Мは個人でファームの経営を始めます。

 

その十年後、スタッフを募集していたところ、僕と出逢ったそうです。

 

 

毎年、ベトナムの正月の時期にはホーチミン(サイゴン)に帰ってくるそうです。その時期が暇になるように、育てる作物も考えてあります。

 

しかしМは難民として受け入れられた時点で、ベトナムの市民権は無く、現在はオーストラリアの市民権を持つオーストラリア人です。パスポートまで見せてくれました。
だから母国に帰る時は外国人扱いでの入国になるそうです。
本人は帰れるだけマシだと笑っていましたが、僕は何とも言えない焦燥に駆られてしまいました。

 

ホーチミンに来ると、やはりМのことを思い出します。現在はとてもきれいな街並みで、無数のバイクが元気に走っている活気で溢れた街に生まれ変わっています。

 

横山笑来

 

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